Archive de 9月, 2011

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9月

大阪市立大学フランス文学会

   Ecrit par : etudiant   in 学会

日時:2011年9月10日(土) 15:30より
 (14:00より 運営委員会@L333)
場所:大阪市立大学法学部棟11階711C教室

【研究発表】

1.藤澤秀平
 「プルースト作品における鏡と眠り - 「わたし」の同伴者を求めて」

 見出された時』で展開される「わたし」の大変よく知られた文学論・読書論によると、一冊の書物とは「一種の光学器械」であって、「それによって読者は、この本がなければ、おそらく自分の中に見ることのできなかったものを見分けることができるのだ。」(IV,490)とある。ただ、自分の中に何ものかを見分ける。それも、書物という特殊な「光学器械」がなければ目にすることが出来ないものを見る、とはいかなることだろうか。
 この私が自分自身を見つめる。内省や、反省を意味する喩えではなく、自分の認識をその認識主体にリアルに折り返すことは、けっして容易いことではない。例えば、それはまどろみに落ちようとするものが、まさにその瞬間において眠りを正確に捉える離れ業にも似ている。しかし、そうした折り返された意識の働きが真の意味で働かなければ、私たちはただ、どこまでも続く現在という時の流れに飲み込まれるだけとなってしまう。
 外部から自己を見つめるという、プルースト作品において試みられた、いわば困難な自己超越の冒険を、鏡・眠りといったテーマから辿り直してみたい。

2.津川廣行
 「フランクリンの「諺」からみた『鎖を離れたプロメテウス』――複雑系的ジイド論の一環として――」

 ベンジャミン・フランクリンの作ともされる「くぎが一本抜けることで蹄鉄がはずれ、蹄鉄がはずれて馬が倒れ、馬が倒れて騎手が命を落した」とい う「諺」は、わずかな手抜かりも重大な災厄をもたらすという喩えとしてよく知られている。本発表は、この「諺」についての、気象学者エドワード・ ローレンツおよび理論生物学者スチュアート・カウフマンの解釈の仕方をモデルとして同じく小さなきっかけが大きな結果をもたらす話を含む、アン ドレ・ジイドのソチ『鎖を離れたプロメテウス』について考察するものである。考察の結果、作者は、ソチ的要素の導入によってもたらされた予測不可能性、非周期性、一言でいえば無秩序と、他方、それによって攪乱された、実験的社会状況における予測と再現が可能な秩序とのあいだに、――カオスと いう広大な研究領域があるとする複雑系の科学と同様――、秩序を乱す作用が同時にまたこれを創り出す作用でもあるような領域を垣間見ていた、とい うことが分ったとし、ジイドは、そのような領域の存在を、ダーウィンの『種の起源』から学んだと結論する。