Archive de 3月, 2011

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3月

大阪市立大学フランス文学会

   Ecrit par : etudiant   in 学会

日時:2011年3月27日(日)
 総会 13:00より 研究発表会 14:00より
場所:大阪市立大学法学部棟11階711C教室

【研究発表】

1. 有田豊
「偽りの神話――ヴァルド派の起源に関する一考察――」
 歴史学的なヴァルド派の起源は12世紀にまで遡り、リヨンの裕福な商人であっ
たピエール・ヴァルデスが俗語に翻訳した聖書を読みこんで、自ら路上で説教を
始めたことに由来すると言われている。しかし、かつてのヴァルド派内部には
「自分たちは使徒の時代から存在している集団として、カトリック教会が支配す
る暗黒社会の中でも常にキリストの純粋な教えを伝道し続けてきた」もしくは
「自分たちはローマ教皇シルウェステル?世 Silverter I の権力獲得以来、カト
リック教会から派生してキリストの純粋な教えを守り続けた正統の教会である」
という、彼らの起源に関して独自的見解を示す2つの「偽りの神話」が存在して
いた。これらの神話は、1215年の第4回ラテラノ公会議において異端として断罪
されたヴァルド派が、カトリック教会に対して自分たちの信仰活動の正統性を主
張するための一つの手段であり、ヴァルド派内部の共通の歴史として信者たちの
間で長きに渡って伝承され続けてきたものである。その後、ヴァルド派は16世紀
にスイスの宗教改革運動に参加し、ジャン・カルヴァンが提唱する改革派教会の
思想を全面的に受け入れてカルヴァン派と教義的に合同することとなり、自分た
ちが本来有していた思想や慣習の殆どは消失してしまう。しかし、神話に関して
言えば、その後も消失することなく語り継がれていった。発表者は、この神話の
伝承において「カトリック教会からの迫害に耐えながら、宗教改革の先駆者とし
て、カルヴァン派よりも早くから純粋な教会の教えを受け継いできた」という
ヴァルド派側の自負を見出しており、この自負は教義的に合同してもなお、精神
的、歴史的な面でヴァルド派をカルヴァン派とは異なる教会として区別するため
の「一つの境界線」になっているではないかと考えている。
 今回の発表では、ヴァルド派の起源に関する神話の伝承に焦点を当て、彼らの
起源が史資料の中でどのように表現され、どのように受け継がれていったのかを
考察することを目的とする。

2. 小林裕史
「方法的リベルタン(ラクロ、サド)出現の時代背景」(仮題)
フーコーによる、認識論的布置のシフトから見た時代区分、即ち、古典主義時代
(17?18世紀)から近代(1775-1825年以降)への移行の典型をデカルトの
コギト(1637)とカントによる超越論的主観性(1781)の相違に見ることができる。
この両時代はまた、絶対主義的王権国家の時代から国民国家の時代への移行に対
応していよう。これら両者の縮図を、ヴェルサイユ宮殿にあった動物飼育場
(1663)およびベンサムによる「パノプティコン(一望監視施設)」(1791)に見て
とることができるかもしれないし、ならば、動物機械説から人間機械説への展開
とも無縁ではないのかもしれない。それは、個人のレベルで見れば、王国の臣民
から近代的市民への移行に対応しているわけだが、両者それぞれの寓意を、ラ・
フォンテーヌの『寓話』(1668)中の「オオカミとイヌ」およびアンデルセンの
「裸の王様」(1837)に見て取ることも可能かもしれない。また、デカルトの主体
からカントのそれへの移行には、「悪しき霊(デカルト)」(1641)から「超自我
(フロイト)」(1923)への移行が対応しているといえるかもしれないし、実際、
それは、祓魔術からメスメリズム(1775-)を経て精神分析へという展開と無縁で
はないだろうし、悪魔憑きから多重人格(1811-)や神経症への移行とパラレルで
もあるだろう。さらには、外部からやってくる悪(サタン)から、内部からやっ
てくる悪(吸血鬼、分身、「エス(フロイト)」)への移行にも対応していよう。
 さて、限られた時間でこれら全てを論じるのは、もちろん、不可能ですので、
全体を概観するに留めるのか、それとも、ピンポイントで完結した発表をするの
か、只今、悩んでいる最中であります。

3. 津川廣行
「ジイドにおける《来るべき神》の思想――進化論の観点から――」
 本発表では、ジイドの1916年1月30日の『日記』に初めて見られる、
《来るべき神》と呼ぶべき思想への進化論の影響とその帰結について考察する。こ
の《来るべき神》の思想とは、その後の『日記』の記述なども考え合わせて、一言
でまとめると、神によって創られた人間が今度は神といわば 「共進化」しつつ
神を創っていくとするものである。
 ジイドへのダーウィンの進化論の影響(ただし彼は最終的にはネオ・ダーウィ
ニズムの立場に至っている)については、デイヴッド・ウォーカーの指摘がある
が、その全容についてはいまだ十分に検討されていないので、まずその検証を行
う。その結果、『地の糧』における創世についての考え方に影 響の痕跡がみら
れることなどを根拠に、この思想の形成に際しては進化論が大きくかかわってい
ることがわかる、とする。
 晩年のジイドの有名な一句「人間は神にたいして責任がある」は《来るべき神》
の思想を要約したものであるといえるが、同じく1942年4月10日の『日
記』にみられる、観念も最適者生存のための「生存闘争」を繰り広げるとする文
の考察などを通じて、最後に、非目的論的に進展する人間と神の「共進化」とい
う点からしてもここにはやはり進化論の影響を認めないわけにはいかない、と結
論する。

【博士論文報告】

1. 辻昌子
「「ジャーナリスト作家」ジャン・ロラン論
   ――世紀末的審美観の限界と「噂話の詩学」――」
 ジャン・ロラン(1855-1906)は、世紀転換期にジャーナリスト兼作家として
活躍したものの、そのあまりに過剰な頽廃趣味に彩られた作風と私生活のため、
先行研究では「デカダンスの作家」として一面的な評価しかなされてこなかっ
た。本論文では、ロラン作品の語りの構造分析および、アクチュアリテに鋭敏な
ジャーナリストとしてのロランという、これまで見過ごされてきた観点から、彼
の作品を全面的に再検討している。従来の評価に反してそこから浮かび上がるの
は、世紀転換期に文学的トポスとしてもはや有効に機能しなくなっていた「人工
楽園」という世紀末的美学の矛盾と限界性を指摘した、ロラン作品への新しい読
みの地平である。自身の新聞記事と新聞連載小説とを連動させ、ジャーナリズム
という同時代性を強調したメディアを最大限に利用しつつ、その巧みな語りの構
造のなかで「過ぎ去った流行」を捉えなおすという手法には、メディア的観点か
らみた新しさがうかがえる。また、大衆向けジャーナリストとしての経験が生み
出したロランの「噂話の詩学」というスタイルは、客観性と主観性の狭間にあっ
た世紀転換期のジャーナリズムと、当時の文学作品の関係性を読み解く格好の材
料となるであろう。

2. 中條健志
「フランスの「暴動」をめぐる言説と《若者》の「実体化」プロセスの解明
   ――批判的言説分析による考察」
 本発表では、2010年4月に提出した博士論文の概要を報告する。論文の要旨は
以下の通りとなる。
 本論文は、フランスのメディアが、いわゆる「郊外」の問題を「暴動」として
伝えるとき、その当事者をあらわす「若者」という語が、どのようにして用いら
れ、「問題」とされてきたのかを分析することによって、「若者」という語が実
際には実体を持たないものであり、一見したところ自明にみえる内実は言語に
よって実体化されたものであることを明らかにし、「暴動」をめぐる言説の問題
性を指摘することを目的とするものである。
 そのために、2005年10月27日から11月にかけて発生した「暴動」を事例とし
て、「若者」というタームに注目し、「暴動」を伝えるメディア言説を構築主義
的観点から分析する。そこでは、批判的言説分析(Critical Discourse
Analysis)が言説分析の手法として用いられる。
 分析結果から得られた2つの知見は、メディア言説における「若者」が、実体
的な集団を指示するものではないという点、次に、「暴動」に関係する人々とし
て、ネガティブな文脈で語られているという点の2点である。そして、メディア
言説における「若者」は、それが語られるごとに様々な「意味」あるいは「問題
性」が付与されており、実体視することが不可能である、ということ、また、
「若者」というタームが、その排除を意味する文脈、あるいは包摂を意味する文
脈の中で言説として提示されることで、結果的に、「社会的逸脱者」として構築
されていることを結論とした。